2020年4月頃から始まったCOVID-19パンデミック。
私は救命救急医、そしてECMOの専門家として、本気で闘ってきました。
4月からオーストラリアへ留学します。
COVID-19が5類へ移行するとのニュースもあります。
私自身としては、パンデミックとの闘いはもう終わりかなと思っています。
本ブログでCOVID-19と闘った3年間を振り返りたいと思います。
初めてのECMO症例
2020年、九州で初めてのECMO症例は当センターで引き受けました。
当時はCOVID-19は未知のウイルスであり、多くの施設では受け入れ態勢が整っていませんでした。
私たちはECMOnetの情報提供もあり、ECMO患者が当センターに来ることは必然であると覚悟していたので、早めの準備をしていました。
ECMO適応とのことで他院から当センターまで初めて患者さんが紹介されました。
その時のことは未だに忘れません。
当時、COVID-19の死亡率は非常に高く、世界中で多くの医療従事者が命を落としていた状況でした。
最初の症例を受け入れるときはさすがに死を覚悟しました。
子どもたちの顔が脳裏に浮かびながら、『子ども達が成長していく姿を見ることができないかもしれない。』そんなことを思いながら、ECMOを導入した景色は今でも忘れられません。
逃げ出したい気持ちはもちろんありました。
でも、医師になった以上、救命救急医になった以上、災害などの危機的な状況こそ自分たちの存在意義が発揮できるわけで、決して逃げることは許されないと自分に言い聞かせながら。
ここで逃げて、生き延びても、絶対に一生後悔する。
闘って、死んだ方がマシだと開き直りました。
パンデミックとの闘い
以降はブログでも書いてきましたが、自分が専門としていたECMOの需要が急増しました。
臨床では、ECMOが導入されるときは全て呼び出してもらいました。
当院は全国で2番目に多いECMOの症例数です。
私はほぼ全ての症例に対してECMOを導入してきましたので、日本中で最もECMOを導入した医師であると自負しています。
それ以外にも
多施設共同研究をしたり、
学会でガイドラインの作成をお手伝いしたり、
全国で開催されたECMO講習会のインストラクターとして全国を飛び回ったり、
多くの講演や教科書の執筆を担当させて頂いたり、
幸せなことに多くの方々から私の経験を求めて頂きました。
一方で家に帰る日は少なくなり、自ずと子どもと遊ぶ時間が少なくなり、子どもが私に懐かなくなりました。
まさに駆け抜けた3年間でした。
福岡大学がここまでこれたのは私自身の力ではありません。
一緒に駆け抜けてくれた同僚、看護師、臨床工学技士、リハビリなどの仲間のおかげです。
そして、私が描いていた夢を、何も言わずに応援してくれた病院幹部の方々に感謝しています。
行政の方々のバックアップはありがたく、全国の先生方にも助けて頂きました。
関係してくれた全ての皆様、ありがとうございました。
差別との闘い
ネガティブなことはあまり言いたくありません。
でも、今まで言いたかったけど、言えなかったことを思い切って書かせて頂きます。
パンデミックの中、ウイルスだけでなく、多くの差別とも闘ってきました。
志村けんさんがECMOを装着して亡くなったニュースの翌日、私がECMOの専門家としてテレビの生放送に出演させて頂き、人生は変わりました。
その後も私自身はテレビに多く出演させてもらい、知名度が上がりました。
一方で、コロナを診療している医師だということも皆さんに知れ渡って、多くの差別を受けてきました。
同じエレベーターに乗った際には明らかに嫌な顔をされたこともあります。
迷惑をかけてしまうため、自分が行きつけのお店には一切行けなくなりました。
私のせいで子どもが影響を受けたこともあります。
何より悔しかったのが、患者さん自身がコロナという理由で検査や治療が拒否されて、100点満点の治療ができなかったこと。
(これは全国の医療機関で同じ状況だったと思います。)
同じ2類の肺結核であれば、できる検査や治療がコロナではなぜできない。。。
医学的にきちんとした感染防御をすれば、感染しないとわかっているのに、なぜできない。。。
コロナというだけで逃げる医療従事者に憤りを感じたこともありました
(もちろん仕方のないことだとはわかっています。そのような方を責めるつもりはありません。)
そんなこんなで悔しいことが多かったのも事実です。
~続く~
日本最高のECMOの教科書”ECMO・PCPSバイブル”。執筆に協力させて頂きました。
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